高福山 幸福院 雪蹊寺

【御詠歌】
旅の道うえしも今は高福寺
のちのたのしみ有明の月

太玄塔

失明に近い眼病ながら、裸足で7回目の遍路をしているところを太玄和尚に救われる。96歳の生涯。
昭和の傑僧といわれ終戦にかかわる当時の鈴木首相から戦争をいかに終わらせるかの相談を受け天皇は象徴として、日本は負けて勝つべきと説き、鈴木首相にあ てた書簡からの「堪え難きを耐え忍び難きを忍び」の陛下の玉音放送の文言は有名。※画像1

玄峰塔

廃仏毀釈で廃寺となった寺を復興させた17代、山本太玄住職の供養塔。次の18代・玄峰和尚の師でもある。※画像2

雪蹊寺の歴史・由来

土佐湾の桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られる。幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っていることでも名高い。雪蹊寺はそこから西へ約4キロほどである。雪蹊寺の縁起は、まず3つの特色から挙げておく。
1つ目は、四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であること。弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で、「高福寺」と称した。その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている。

2つ目は、鎌倉時代の高名な大仏師、運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげるかわいい善膩師童子像を彫造して安置したとされる。一時、慶運寺と名のったのもこうした由縁で、弟子の道運、海覚作の12神将共に16体、これらはすべて国の重要文化財に指定されている。
3つ目は、「南学発祥の道場」といわれ、江戸初期の住職、天質和尚が朱子学南学派の祖として活躍し、谷時中野中兼山などのすぐれた儒学者を数多く生みだしている。 雪蹊寺で出家し四国を17回遍路した山本玄峰師は、まさに行雲流水の禅僧であった。

雪蹊寺の見どころ

太玄塔・玄峰塔・月法和尚基・信親の墓(長宗我部元親の長男。豊臣秀吉の九州征伐に従い、豊後で家臣700人と討ち死にした。)観音堂天女絵・運慶、堪慶作他16体重要文化財仏像(仏像拝観は要予約)

雪蹊寺の年中行事

節分厄除け/般若心経百巻続経
日時:2月3日
花まつり
日時:旧暦4月8日
盆/ソトバ供養
日時:7月 第1日曜日
施餓鬼
日時:10月 第2日曜又は第3日曜日
除夜の鐘/そば接待
日時:12月31日
安産子安地蔵祭
日時:7月 第3日曜日

第33番札所 高福山 幸福院 雪蹊寺
(こうふくざん こうふくいん せっけいじ)

宗派
臨済宗妙心寺派
本尊
薬師如来
開基
弘法大師
創建
弘仁6年(815)
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

アクセス情報

所在地
〒781-0270 高知県高知市長浜857-3
電話
088-837-2233
駐車場
普通なら10台・マイクロバスなら5台・大型なら3台(午前6時〜午後6時・志納金「隣接の奉神社の土地」)
宿坊
あり(夜具なし)17:00までに入れのこと
公式HP
なし

高知インターチェンジから、はりまや橋方面へ向い、県道34号線から、高知南郵便局先の交差点を右折100m駐車場。
又は、瀬戸バイパスに上り雪蹊寺別れ左に降り左側20m駐車場。
土佐電交通長浜下車。
⇒ 現在地からのルート案内はこちら