菅生山 大覚院 大寶寺

【御詠歌】
今の世は大悲のめぐみ菅生山
ついには弥陀の誓いをぞまつ

掘出観音

昭和9年に大寶寺の山中から掘り出された、金銅製の観音像をお祀りしている。掘り出された観音像は、樹齢千年余りと思われる樹の根元で法華経が一字一石に書かれた約130枚の石に覆われていた。
京都博物館の鑑定によると、観音像は平安時代後期〜鎌倉時代初期のものであろうということである。
身体から病気や悪霊を掘り起こしてくれる有り難い仏様といわれ、信仰されている。※画像1

陵権現

後白河天皇の妹宮をお祀りしている。保元年間(1156〜58)に後白河天皇が御脳の病になられた時、当山に勅使が参詣し当病平癒の祈願を込めた。祈願成就になって多額の浄財を寄進、それによって菅生山に48の僧堂坊舎が建立された。
併せて御皇妹宮が住職としてこられた。妹宮の死後は廟墓と五輪塔を建立して、陵権現としてお祀りし、現在も陵、勅使橋の遺跡がある。
また、後白河天皇直筆の『菅生山』の勅額も残されている。※画像2

大寶寺の歴史・由来

四十三番明石寺からの道のりは約80㎞、峠越えの難所がつづき、歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場。四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。四国山地に囲まれた標高579mに位置し、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。
縁起は大和朝廷の時代まで遡る。百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697〜707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。

仁平2年(1152)、全山を焼失。だが、直後の保元年間(1156〜59)に後白河天皇(在位1155〜58)が病気平癒を祈願して成就され、ここに伽藍を再建し、勅使を遣わして妹宮を住職に任じて勅願寺とした。このときに「菅生山」の勅額を賜り、七堂伽藍の僧堂を備え、盛時には山内に48坊を数えるほどであった。
その後「天正の兵火」で再び焼失、松山藩主の寄進で復興し、江戸中期には松平家の祈願所にもなったが、さらに明治7年には3度目の全焼、火災との苦闘を宿命にした。

大寶寺の見どころ

久万山農民一揆・陵権現・芭蕉塚(芭蕉33回忌の法要を営んだ際に建立されたもの。)

第44番札所 菅生山 大覚院 大寶寺
(すごうざん だいかくいん だいほうじ)

宗派
真言宗豊山派
本尊
十一面観世音菩薩
開基
明神右京・隼人
創建
大宝元年(701)
真言
おん まか きゃろにきゃ そわか

アクセス情報

所在地
〒791-1205 愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生2-1173
電話
0892-21-0044
駐車場
あり(無料)
宿坊
あり(150人・要予約)
公式HP
なし

松山インターチェンジから国道33号線を久万方面へ進みます。久万警察署を過ぎた次の信号で左折、県道12号線を走ります。久万公園前で右折、久万美術館を過ぎたら、左折します。
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